うわべを撫でて過ぎていく。

朝、道の端で自転車にまたがったままハトを眺めていた。

私はだいたい毎朝散歩に出かけるのだが「楽をしよう」と徒歩ではなく自転車を選んだところ、10分でコースを回りきってしまったのだ。

まっすぐ家に帰ったら、さっき私を見かけていた近所の人が、もしかしたらまだ同じ場所にいるかもしれない。

私はニートみたいなものだけど、でも「ニートなのかな」と思われるのは怖い。

そういうわけでハトを眺めていた。ハトは10分くらい首以外はほとんど動かさず、首をやたら小刻みに動かしていた。その時間の潰しようはほとんど私のそれだった。勝手に親近感がわいてきた。私は首は動かさないけど。

ハトを見ながら、昨日の飲み会を思い出していた。

高校時代の友人と4人でチェーン店のバーに行ったのだ。3人はお酒を飲んでいたけど、私は母が酒嫌いだからノンアルコールのカシスミルクを飲んだ。

カシスミルクは草の匂いがする牛乳だった。おいしかった。いまググったらカシスって果物らしい。まぁ、大きくくくれば、草だ。

草を食べながら、私はみんなの話に相槌を打っていた。

この春、私たちの会話に新たなコンテンツ「仕事の愚痴」が追加された。

思えば大学生になった時は、レポートや単位の愚痴がかっこよかった。大学生というコンテンツを満喫していた。

そして社会人になり、みんなそれぞれ社会人というコンテンツを味見している。

これはこれでうまそうだと、狭いテーブルで喋りながらみんな感じていたんだと思う。2時間ほどそれぞれの仕事だとか初任給だとかの話で盛り上がった。

感慨は特になかった。

どの話も、ノリでもらった名刺も、小学校の頃に思い描いていたよりずっとあっさりと現実だった。

環境が変わることに慣れたんだと思う。

中学で定期テストという単語をやたら使ってみたのも、高校で留年を怖がるフリをしたのも、大学でレポートだの単位だの教授だのと連呼したのも、ぜんぶ同じことだ。

卒業したり入学したりするたびに、自意識がほとんど変わらないまま環境だけが変わっていくことを知った。

そして私が味見していたのは他人の皿だ。みんなと同じ土俵にいるつもりで会話を楽しんでいたけど、私は就活せずに大学を卒業した。

ブログを専業にした結果、いまの月収は缶ジュース4本分だ。

愚痴なんて「稼いでいる」という前提をクリアしているから盛り上がるのであって、私が言ってもかっこわるいだけだ。

元々みんな私の懐事情を察して気遣ってくれているのに、その上さらにかっこわるいことはできない。ちょっとみじめすぎる。

でも就活しなかったこと自体を後悔しているわけじゃない。どうせ1年前に戻っても就活が怖くて逃げている。

だから仕事の話には参加できなかったけど、飲み会自体は楽しかった。ベンチのハトと同じくらい、頷くのも派手にやってしまった。

狭くて安いバーというのがそれっぽかった。

社会人といったら、仕事おわりのくたびれた体に安い酒を流しこむっていうのが、それっぽい。安いバーだって食べて飲んで割り勘したらきっちり2,000円を超えているのも、それっぽい。

「それっぽい」なんて思っているうちにすぐ「いい年して安いバーで飲んでいるのはダサい」になるんだろう。

たぶんその時もハトはそのへんで首だけ動かしながら延々と時間をつぶしているだろうし、私はそれをぼーっと眺めているだろうし、安いバーを振り返って「あの頃は若かったな」と腑に落ちている。

そうやって「それっぽい」を追いかけているうちに、知らない間に大人になって、ぜんぶ過ぎていくんだろう。あまり痛感はしないまま老いたい。

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