コンビニの男性店員に一目惚れしたその後。

財布が重い。小銭入れには五円玉と一円玉が大量に入っている。

コンビニの男性店員に一目惚れしてから、そろそろ半年がたつ。

最初は覚えてもらうために同じ紅茶を買っていた。彼だけでなくほとんどすべての店員に認識された今も、なんとなくやめられなくて同じ紅茶を買い続けている。

おつりでもらう五円玉と一円玉を何も考えずに財布へ入れていたら、すこしずつ、不自然な量になった。

彼はたいてい月曜の夕方にいる。決まった曜日の決まった時間にいるから週に何度も通う必要はないのだが「もしかしたらいるかもしれない」と思うと足が向いてしまう。

しかしそれと同じくらい「いなくてもいいや」と思うようになった。最近は、主婦らしき店員に「あぁこいつか」くらい薄く認識されるのが心地いい。

大学を卒業し、所属するコミュニティがなくなった。特定の場所に行って、私を私と認識しているゼミ仲間に「おはよう佐藤」と言われる生活がおわった。

私は道を歩いているひとりの人間になり、ただの風景の一部になった。

早起きしても、通勤ラッシュで混んでいるバスに乗っても、風景の一部である。だれも私を、私として認識はしていない。

そういう生活のなかで「同じような時間に来て同じ紅茶を買っていく奴だ」と私を私として認識している人に会うと、社会とつながっている気がする。

早起きして、生産性もないのに通勤ラッシュのバスに乗ってとりあえず健康維持をして、作業して、親のお金で生活して悩んでいるわりに日を追うごとに楽観的になってしまっていることを、そういう日常を着ている私を、認識してもらえることがすこし嬉しい。

社会という漠然とした大きなくくりの中で、消えずに残っているような気がする。

癖みたいなものだ。

自動ドアをくぐって、目当ての棚へ向かい、ペットボトルを持ってレジへ向かう。レジが空いていれば滞在時間は一分にも満たない。

店を出てしばらく歩いてからペットボトルのフタを開けて、透明なプラスチックをちょっと眺めて、帰り道に飲む。近所の自販機横のゴミ箱へ捨てる。

慣れた。

冷静になった。

いまは「男性店員がいたらラッキーだし、いなくてもいいや」という気持ちで通っているけども、これが完全に「どっちでもいいや」になったら、私はおそらくあのコンビニには行かない。

薄いつながりだけを求めて行くには、あのコンビニは遠すぎる。

何でも潮時というものがある。

男性店員への気持ちの潮時は、一ヶ月くらい前だった気がする。

この薄いつながりの潮時も、そろそろやってくるんだろう。

先のことは読めないけれど、半年後ぜんぶを振り返って、あぁ楽しかったなと笑えるくらいさっぱりした人間になっていたい。

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