卒業式なんか。

着物用の小さくてかたいカバンは、持ち手がちょっとねじれていた。

やけに頑固でねじれたまま固まっているのでそのままにしておく。かさばる式次第を半分に折る勇気もなく、シワにならないよう気をつけながらカバンと一緒に膝へ置いた。

大学の卒業式は冴えなかった。

慣れない袴でパイプ椅子に座り、しらない人間から「若き人材」と言われ、指示されるまま立ったりお辞儀したり座ったりして、それを「晴れの日」とまとめられた。

「晴れの日」とか「一生に一度」とか「学生最後の日」とか、そういうことを言われると無駄に真正面から受けとめてしまうからやめてほしい。

ガムの包み紙でも「二度と手に入らない」と言われれば手離せなくなってしまう人間には、刺激が強すぎる。

イベントは昔から、二度とないという事実にばかり目が行って、目の前で起きていることとは関係なく息苦しくなる。だからできれば行きたくなかった。

でも、「卒業式には行かない」と突っぱねるだけのこだわりもエネルギーもなかった。

親は喜々として着物と袴を準備してくれたし、姉は私のヘアアレンジを調べてくれたし、行かなかったら行かなかったで後悔することの方が多いような気がした。

結局のっぺりした顔で行って、着いたらパイプ椅子でちょっと背筋を伸ばしてカッコつけてみたりしながら、偉いらしい人間のスピーチで「若き人材」と言われこの先の老化を悲観していた。

一番印象にのこったのは、スピーチ中、うしろの男子たちが「あのおじさん働いたことあんのかな」と呟いていたことだ。

「学生最後の日」なんて看板を背負わせるには、どれをとっても冴えなかった。

毎日飽きるほど飲んでいるインスタントコーヒーの一口目のほうが、よっぽど集中できる。

私という存在の価値とか、学生生活への感想とか、日々老いていく恐怖とか、そういう考えたくないものを全部忘れられる。冴えているのが自分でもわかる。

何日も経ってから卒業式を振り返り、「卒業式なんか」と頭のなかで文句が並ぶ。

卒業式なんか先に日取りが決まっていて、その日を無理やり一日区切って、一生に一度のイベントとしてできあがるだけで、私のなかのベストオブ大学生活シーンが凝縮されているわけじゃない。

それに、細く長く続いた四年間の端っこでもなかった。私の大学生活とはまったく別のところに浮かんでいる行事だった。

冴えない。どうにも冴えない。

卒業式なんかよりも、いま家でコーヒーを飲んでいるこの瞬間のほうがよっぽど冴えている。

卒業式なんか。

でも、卒業式をくだらない一日だったと忘れることもできないのだ。家で飲むコーヒーの一口目はすぐに忘れてしまうのに。

死ぬときに思い出すのは卒業式のほうだろう。

そうやって、大きな流れに逆らうこともできず、ただ不貞腐れた顔をして流れていく。数年経ってまわりが卒業式を懐かしむ頃には「懐かしかったね」「若かったね」と思ってみたりする。

そういう人間だから、私は大学に行ったんだと思う。

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