姉と『メリー・ポピンズ リターンズ』を観てきた。
きっかけは原作だ。むかし、私の家には過去の遺物みたいな状態で『風にのってきたメアリー・ポピンズ』が置かれていた。何冊かある原作のうちの一冊である。
それを読んでいたので「映画版ってどんなんだろうね」と古参ノリで観てきたのだ。本の内容は二人ともほとんど覚えていない。
そして「ずいぶんファンシーになったね」と持てるかぎりの記憶でもって古参的感想をしぼり出したところで、帰ってきた。
映画のワンシーンで、子どもが寂しさを紛らすためにぬいぐるみを抱きしめながら眠る、というシーンがあった。
私はそれを見て「オタクと似てる」と思った。
私はオタクなのだが、私がいつも欲しているのは「心の拠りどころ」である。
現実世界がしんどい時ほど、大きな拠りどころがほしい。傷心のまま助走をつけて飛びこんでも揺るがない沼がほしい。
そして二次元のキャラクターや三次元のアイドルをながめる、というオタク活動によって、沼のなかで安全に自己承認欲求を満たしている。
なぜそれで自己承認欲求が満たされるのか私自身もよく分かっていないが、オタクを対象としているコンテンツというのは基本、見る者に優しいのだ。自分はこのままでいいと思わせてくれるものが多い。
「自分を認めてほしいなら三次元の人間と関わればいいじゃないか」というのが現代社会の風潮らしいが、我ら弱者は知っている。
自分も含め、リアルな人間が一番他者をみとめない。
「ありのまま丸ごと許容してよしよししてくれる」なんて金を払って表面上やってもらうサービスである。
傷心のときほど、人間などという生き物とは関わりたくない。関わったらいいこともそりゃあるんだろうが、そこそこ痛い目も見ると知っている。
なにせ「本当はリアルな人間がいいのにかわいそうなオタクは架空に逃げてるんでしょ」なんて上から目線で傷口に塩を塗りこんでくるのも三次元ピーポーだからなのだよ。
無償の愛を注げるのは三次元の人間だろうけども、傷心のときは特に、全然関係ない人間にすすんで傷つけられにいくようなエネルギーは持っていないのだよ。
他人と触れ合わずに自己承認欲求を満たせるとは、そんな手段は今のところオタク活動しか知らない。
もはやオタク活動は「リアルな人間の代用品」ではないのだ。非現実だからこそ完成形だし、現実逃避の手段として替えの効かない物、パーフェクトでありオンリーワンなのである。
へたすると人類全員がオタクになり、リアルの人間は「オタク活動の代用品」という常識ができる日も近い。
という一連のオタク語りを、『メリー・ポピンズ リターンズ』を観ながら考えていた。
ポップコーンおいしかったなぁ。