リップをなくした。

昨日のことだ。午後になってから散歩へ行こうとした私は、鏡の前でリップを塗った。

そして「リップも一応持っていくか」とフタを閉めたところまでは覚えている。

その後の記憶がない。

つぎに記憶があるのは約五分後、家を出ようというタイミングだ。上着を羽織り「あれ、そういえばリップは?」と思い出した。ひととおり見渡してみるが、見当たらない。

その時はまだ甘く見ていた。

最後にリップを見てからわずか五分だ。家の中には私ひとり。すなわち、私の置いた場所からリップが移動する可能性はゼロ。

あとで探すことにして、ひとまず散歩へ行った。

帰って来ると、変わらず家はしずかだった。誰も帰宅していない。

リップ探すか。

捜索をはじめて、愕然とした。無いのだ。探し物はだいたい十分くらい経つと「無い」から「本当に無い」へとレベルアップする。

しかし「本当に無い」までレベルアップするのは大体、最後にソレを見たのが数日以上前の場合である。

五分しか目を離していない無機物が「本当に無い」レベルの探し物になるとは思わなかった。

洗面所まわりにも、かばんにも上着にも無い。

捜索範囲を広げたが、本棚にも、テレビまわりにも、寝室にも無い。

この時私は、「間違って捨ててしまったのでは」と思いついた。

ありえる。あれは去年だったか。左手にゴミを持ち右手にスマホを持ち、大学のごついゴミ箱にスマホをぶちこみそうになった時は本気で焦ったものだ。

ゴミ箱をのぞいた。郵便受けからゴミ箱へとまっすぐ投げこまれたチラシを持ち上げ、空のヤクルトをどかし、昨夜母がつかっていた白髪染め容器が顔を出したところで、捜索を中断した。

無い。なくしたのはつい数時間前だ。昨夜よりも下の地層には無いだろう。

ここで私は思った。

「え、こんな見つからないことある?」

素朴な疑問だった。たかだか五分の間に、ゴミ箱に間違って捨てたわけでもなく、いったいどこへ?

私はそれから、プリンターの隙間も、ふだん使わないクローゼットの中も、しばらく着ていない上着のポケットも、本棚の裏も調べた。

ヤケだった。もはや自分の行動範囲や「置きそうな場所」という概念を捨てていた。空間という空間をのぞきこんだ。

不思議な感傷が押し寄せてきた。悪の組織にとらわれた恋人を、必死に探し続けるヒロインのような。「もう一度会いたい」という気持ちだけで、時間も忘れて捜し歩いた。

無かった。

結論を言えば、マジで見つからなかった。

私は悟った。

これはもう、どこから出て来たとしても「そこに置いた記憶」は蘇らないだろう。

私の過去からいえば、完全に記憶がない瞬間というのは大抵何かをやらかしている。

高校入学時の書類手続きで、何度も確認し、たしかに書類しか入っていないはずのカバンに書類を入れ忘れていた時、それを同日のうちにもう一度くりかえした時。

遊びに行く際、定期を忘れないように六回確認した結果、忘れた時。

リップをどこにやってしまったのか、あの瞬間の自分の神経を疑うけれども、かといって、いまリップを捜索している自分でさえ、まともである自信はない。

疲れた。

もう疲れたよフレドリック。

フレドリックじゃないな、あの犬。

あの犬なんて名前だっけ、僕もう疲れたよの犬。

パトリック。

パトリックじゃないだろお前……あぁパトラッシュか……お前の名前思い出すのにまただいぶエネルギー食ったよ……。

……

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