「自分を責めるな」「たまには休め」「そして頑張れ」
あげくの果てには、「起業してもいいんじゃね」。
ネットで「就活から逃げたい」旨を検索すると、他人事&上から目線のアドバイスが溢れている。
就活生は何をしても、上から物を言われる。“就活”は人権を奪うマジックワードなんじゃないかと思う。
その人間が就活しているなら、圧迫面接で暴言を吐き、緊急時の対応力を観察するという、人体実験をしても構わないわけだ。
このテクノロジーの時代にずいぶん原始的である。
インターンシップの途中で一度、疑似的な圧迫面接をされた。
よく覚えている。喋ろうとして息を吸ったとき、乾いた粘膜に空気がすべるような音がした。唾も出なかったが喉を動かして空気ごと飲み込んだ。喉が張り付くのがわかった。
一言でいえば屈辱だったんだと思う。
そういう経験をした人間が「逃げたい」と検索するんだろう。本気で逃げ道を模索している人間より、誰にも言えないつぶやきを検索してみるだけって場合が多いんじゃないだろうか。
しかしネット上では、あまり就活生に寄り添っていない記事が多い。
早々に就活から逃げた私ですら、どこかで聞いたことがあるようなアドバイスが並んでいるんだから、就活生にとっては何の役にも立たないだろう。
正論かどうかは関係ない、他人事感がありありと見えるのだ。
ああいう記事って執筆に何時間かかってるんだろう。
就活生が日々24時間悩み続けている事柄にたいして、2~3時間程度の作業時間で解決策を提供できると思っているなら世も末である。
それともビジネスのひとつで、就活生の必死さを利用してお金を稼いでいるだけだと言われれば、いろんな意味で天を仰ぐしかない。あの人たちはたぶん本当に稼ぐから、死ぬほど反論したいが、ブログで収益を上げられていない私としては、口をつぐむしかない。
しかし「起業してもいいんじゃね」という文言を見たとき、たぶん就活生はそんな言葉を求めていないだろうなと思った。
単純に疲れているときに「気分転換に旅行へ行け」と言われているようなものだ。寝かせてほしい。
とはいえ私は就活から逃げて起業したので返す言葉もないのだが、本来の起業って、就活の逃げ道なんだろうか。
現在のネットは、頑張るべき就活から逃げて正規のレールから外れるならば、起業という手段もある、という論調だ。
「くさやを食え、食わないと人間じゃない、どうしても食えないならこの生魚を頬張れ」に近い。
私はどうしてもくさやを食えず、生魚を頬張っているところだが、生魚の味がどうこうより、くさやを食えなかったことに対する負の感情はいまだに消えていない。
就活が怖すぎて逃げ出して、ブログをはじめただけである。
それくらい、就活にとらわれている。
就活をしないって、大学生にとっては人生を捨てるくらいの勢いだ。
みんな、生涯安泰に暮らしたいし、幸せを感じたいし、可能ならば世間に認められたい。
そのための手段のひとつとして就職があり、就活がある。起業という手段もあるし、一度海外へ留学するという手段もあるかもしれない。
そのはずなのに、どういう因果関係か分からないけど、就活が正道、そのほかは邪道になっている。
だから余計に就活がつらい。
就活をしている人の中にも、勝ち組と負け組があって、企業の規模、内定を貰えた時期で、どんどん正道は狭くなる。
大学生のせいじゃないだろうし、誰のせいかも知らない。でも、この風潮がなくなればいいとは思う。
単純につらいのだ。
大学4年生という単語自体にマイナスイメージがつくほど、就活がつらいのだ。
就活をやりきったところで評価されるわけでもなく、起業したところで評価されるわけでもなく、益にも害にもならない世間が偉そうに「当たり前だ」「それが社会だ」と言うだけである。
他人の努力を無下にして、何も生まない。
たしかにそれが現代社会かもしれない。
そのうち私も、就活生の努力を土に埋めるようなことを言うのだろうか。
そんなことを言えるくらい今の苦しさから解放された状態になるならば、それも羨ましいとすら思える。