ブラックペアン原作の魅力はリアリティだと、4記事にわたって語ってきた。
原作渡海先生の魅力も、あたかも現実に存在するかのような人間味だ。
カッコつけずに言うなら「あー渡海先生って生きてるんだ……」である。
この記事のテーマはタイトルのとおりなのだが、みなさんは「渡海先生って生きてるんだ」という感覚がどこから来るのか4時間かけて考えている、私のオタク語りを聞きたくはないだろうか。
じゃあ、渡海先生の魅力をプレゼンします
そもそも、原作の渡海先生に、なんで人間味を感じられるのかという話だ。
私は、リアリティとか生々しさって、自分の中にしかないものだと思っている。
たとえば「痛み」は、あたかもそこらじゅうに転がっているような言われ方をするけれど、本当は、自分の中に無い感覚は、想像さえできない。
痛みも快感も、結局はぜんぶ自分の経験だ。
転んでひざを擦りむいた痛みは、自分がひざを擦りむいた時の痛みしか知らないから、ほかの人間が実際どう感じているかなんてわからないのだ。
でも、体験したことのある感覚は体が覚えている。
小説なら、この体が覚えている感覚を、よりリアルにより多く呼び起こしてくれる描写が、”生々しい”んだと思う。
ブラックペアンの描写はすごい。
昨日、原作は夏の描写がヤベェと騒ぐ記事を投稿したが、ずばりコレだ。
一文一文が詩的だったり巧みだったりするわけじゃない。わりと堅苦しい部分が多い。
けど、夏に裸足&サンダルで歩いてると足の裏に砂粒が入り込んで地味に痛い、みたいな(これは私の近況である)、そういう、”自分が知っている感覚”を呼び起こされるから、脳内にリアルな世界観ができあがる。
原作の渡海先生は生々しいのだ。
以前、原作の渡海先生を「よく喋るぶん毒舌が薄まってる女タラシ」と言った。
この、「あぁ、こういう人いそう(or過去に知ってる)」という感覚が、ちょっとずつ積み重なって、リアルな渡海先生ができあがる。
しかしこれだけではそれほど魅力がない。「よくいるそのへんの人」である。
リアリティという繋がりで、描写の生々しさに加えて、もう一つ言いたいことがある。
ドラマ版の渡海先生では削ぎ落されている部分が原作の渡海先生には”ある”のだが、この部分、ちょっと語りたい。
ずばり、人間らしさである。人間のカッコ悪い部分だ。原作の渡海先生はドラマ版ほどカッコ良くない。
たとえば夏は、
あー炭酸飲料が飲みたい。冷えたやつ。それ飲んだら風通しのいい日陰で昼寝でもしたいわ。
みたいなことを考えている。気が緩むと口からも出ている。
人間って案外そんなものだ。自分が大した人間じゃないことを知っているから、他人の「大したことない」部分を見ると、人間らしさを感じる。
特に最後。ドラマ版の渡海先生は真実を受け止めて、佐伯教授を尊敬するとまで言い残して去って行ったが、原作は違う。
ラストの人間味がよかった。ドラマと原作で二度おいしい。
実際に渡海先生VS佐伯教授の構図があったら、結末はドラマよりこっちになるだろうな、という最後である。
ドラマは芸術として、原作は現実として楽しめる。
そこまで人間らしい渡海先生が存在したうえで、トドメが人間離れした手術の手腕だ。
いわゆるギャップ萌えである。
ふだんの言動が普通なぶん、悪魔加減は、ドラマ版よりも際立っている。
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