「偏頭痛 仮病」で検索すると、出てくるわ出てくるわ、辛辣な言葉たち。
他人のつらさに、自分の経験を振りかざして偉そうなことを言う人が多い。私が偏頭痛持ちだから不快に感じるんだろうか。
よし、私も今から自分の経験を振りかざして記事を書こう。
「つらい」と言っている人に、「つらくないはずだ」「我慢しろ」と言うのは、どういう気持ちなんだろう。
大してつらくもなさそうなのに悲劇のヒロインみたいな顔してるから腹立たしいのだろうか。
これは私の持論なのだが、人間は結局、自分のつらさしか分からない。
「男の方が大変」「女の方が大変」という議論もそうだ。男は「男の方が大変だ」と言い、女は「女の方が大変だ」と言う。
不登校児は「不登校の方が大変だ」と言うし、学校に行ってる人は「学校に行く方が大変だ」と言う。
体験したことがない何かのつらさは、想像すらできない。
想像できると思うのは傲慢だ。梨しか食べたことがない人にリンゴの味は分からない。
しかも、梨とリンゴの両方を食べたことがある人の中にも、梨の方が好きな人もいるし、リンゴの方が好きな人もいる。
本当に人それぞれだ。
私は、ある時期は普通に学校に行ってる人間だったし、ある時期は不登校児だった。
学校に行くのは大変だ。眠くても朝が来れば布団から這い出て支度して学校に行く。行けば行ったで宿題が出たり理不尽なことで叱られたり友達と喧嘩したり、毎日ひとつひとつ乗り越えていかなければいけない。
一方不登校は、朝起きなくていいし、宿題はないし、理不尽に叱られることもない。でも、社会から隔絶されひっそりと忘れ去られて、生きながらにして自分の存在意義が死んでいく恐怖がある。
まったく別物なのだ。このつらさだって、私以外の人間が体験した時にどう感じるかはまったく分からないが。
みんな、「自分がつらい」ことしか分からない。
他人のつらさを理解しようとするのではなく、自分のつらさしか分からないことを認めたほうが話は早い気がする。
本題に戻ると、偏頭痛はつらい。
私の場合は、頭痛が来ないでほしい時に限って痛くなるし、頭痛だけなら押して動けるが、押して動くと吐き気がプラスされる。
吐き気が来ると何もできない。立ち上がって歩くこともできなくなる。
いい大人が、立ち上がって歩けなくなるかもしれないというのは、とんだリスクだ。
常に偏頭痛のリスクから逃げまわって生きている。
なるべく誰にも気づかれないように耐えているが、隠しきれないこともある。
加えて外野が「そんなに痛いわけないだろ」とか「それくらい我慢しろ」と言うのはやめてほしい。
傷つく。
とはいえ「頭痛いのぉ」と言っている奴がいたら私も信じない。本気で頭痛い奴がそんなぶりっ子できるかよと思うからだ。
信じないが、この間「人間は自分のつらさしか分からない」と気づいた時、自分が「仮病なんじゃない?」という冷たい視線に傷ついてきたのと同様に他人を傷つけて来たことに気づいた。
他人のつらさを否定するのって偏頭痛よりリスクが大きいんだなと。
この記事にたどり着いたあなたは、何かしらで偏頭痛にまつわる辛い思いをしているんだろう。
そう思うと、私にとってあなたは仲間だ。
あなたにとっても私が仲間であったらいいなと思う。
偏頭痛って、マジつらいよね。