純文学の良さが分からない。

いま、膝の裏にボールペンを挟んで、謎に剥けてきた指の皮をいじっているところだ。

パソコンの前に座ってさめたコーヒーをちびちび飲んでいるが、いつもと同じく、ネタが浮かばない。

ネタがないなら黙っておけということなのだが、ちょっと待ってほしい。

言いたいことはたくさんあるのだ。

世の中に向けて発信したい、大事なあの人に伝えたい、みたいな大それたことじゃなくて、普通に不平不満がいっぱいある。

あと聞いてほしい話もたくさんある。

しかし話したいことをそのまま話すと、「ねえねえ今日電車の中でさ」とどうでも良いことをひたすらしゃべり続けるただのうざい奴になって、誰も読んでくれない。

聞いてほしいなら、それ相応に話す技術を身につけなければいけない。

技術といえば、私はいつも疑問に思うことがある。

純文学の良さが分からない。

詩や小説で「これは分かる人にしか分からない」みたいなジャンルがある。

私がまだ若いからなのかそれとも単純に馬鹿だからなのか分からないけれど、ああいうジャンルがよく分からない。

私は、文章は手段だと思っている。

自分が考えていることを、音のない状態で相手に伝えるための手段に過ぎない。

伝えるためのツールなのだから、伝わらなければ意味がない。

内容が伝わらないなら、読み手にとっては読んでいないのと同じだ。

一部の人が「これはいい」と言ったからといって、大多数の人には伝わっていないのに、そういう詩や小説を褒めたたえる風潮が不思議でならない。

絵本の方がみんな分かって面白いじゃないか。

そもそも、「伝わるか伝わらないか」という、文章において一番重要な部分を受け取り手に丸投げしていること自体がおかしいと思う。

この詩が理解できない奴は感性が乏しいとか、教養が足りないとか、そんなことを上から目線で言えるくらい賢明なら、ぜひ万民に伝わるものを書いてほしいところだ。

だから結局何が言いたいかというと、ああいう詩や小説が分かる側の人間になりたい。

私は寂しい。

友達の斉藤が純文学を好きなのだが、その面白さが分からなくて寂しいのだ。

小学校高学年のとき、ちょっとぶ厚い本を読み始めた友達の隣で絵本を読んでいた時の気持ちを思い出す。

分からなくて寂しいからディスってみた。

すみませんでした。

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